極楽蝶華


二人静

暑い夏だった。
甲斐はこんなに暑いのかと源五郎はうんざりした。

彼は夏でも心地よい風の吹く上田の真田の庄で育った。
父の幸隆が武田家へ仕官するのにあたり、三男の彼が人質になることとなった。

7歳の源五郎は一人で躑躅ヶ館に向かっていた。途中までは叔父が送ってくれた。
地図は頭の中に入っている。源五は賢い子だった。
孫子も論語も何度となく読んでいたし、禅問答でも、上の2人の兄たちに負けたことがない。
口ばかり達者なやつと憎まれ口をたたかれた。
兄たちは言い負かされると腕力にものを言わせた。

阿呆ばかり人質にいたらイヤだな、と源五はぼんやり考えていた。

額の汗をぬぐうと近くで水音が聞こえた。
農民の子でも川で遊んでいるのだろうか。
源五は冷たい川の水を想像してしまった。この暑さの中でその誘惑に勝てるわけがない。
少しくらいいいさ、と彼は思った。
逃げるわけじゃないし、と草履を放り出して、目指す水面に走りだす。
澄んだ川面がキラキラと輝いている。

源五が飛び込こもうとした時、水面に上がってくる人影が見えた。
思わず身を葦草に身をひそめた。
先ほどの水音の主か。
近隣の農民か妖怪か、と思った源五郎は息をのむ。

水面から顔を出したのは薄衣を身にはりつかせた少女だった。
透き通るような肌、朱をさしたか如くの唇、黒く大きな瞳を彩るのは長いまつげ。
髪はまだ肩につくかつかないかだが、絹のように輝いている。

同じ年頃だろうか、薄衣の下の体は…とそこまで考えてから源五郎は我に返って顔を赤らめた。
胸が高鳴っている。
そのまま後ずさったところが水鳥の巣だった。
水鳥が派手に音を立てて飛び立つ。

「馬鹿!しーっ!」
源五郎は中腰で人差し指を口にあてた間抜けな格好で彼女と対峙することとなった。

「すまん!覗いていたとかそういう訳では…」

美少女はきっ、と一睨みして身を翻すと対岸に消えた。
源五は冷や汗をかいて川に入る気が失せていたが、甲斐も悪くないと思い始めていた。

やっと躑躅ヶ館につき部屋に通されたところ、父の幸隆は誰かと碁をさしていて、振り返るでもない。
源五郎は頭に来て、劣勢の相手に耳打ちした。
その男は表情を変えずに2、3度頷くと素直に従った。
するとたちまち、劣勢から攻勢に、優勢に転じ逆転勝ちした。
「この餓鬼」
本気で苛立った幸隆が首根っこをつかもうとするのを、源五はすり抜け舌を出してやった。
源五の勝たせてやった男が膝にのせてくれ助けてくれる。のぞきこめば、彼はほっそりとした顔に怜悧な瞳を持っていた。
「お前のおかげで脇差しをとられなくて、済んだ」その男が笑みを浮かべ薄い唇からつぶやいた。
「じゃ、オレに頂戴。あげてもいいものでしょう?」
「ははは、さすが真田の三男坊」
「恐縮です。源五、お館様だ、ご挨拶しろ」幸隆が苦笑いしながら言った。
「ええっ」
源五は慌てて膝から飛び降り平伏した。
これが、甲斐の虎と畏れられる武田晴信か、まだ年若く精悍でありながら柔和な顔に源五は驚いた。
「堅苦しい挨拶はいい、おまえは優秀なそうだな。
よし、これを下賜しよう。今日から奥近習として仕えてもらうぞ。思う存分軍略を学ぶといい」
人質とは思えない破格の扱いだ。
脇差しを賜った源五はまだ平伏したまま、父をチラリと見た。
隣で幸隆がにやりと笑う。
晴信が今から武田の国境のために、使える将を鍛え上げるつもりなのを知っていた。
この三男は美童にはほど遠い。その才を他人から後ろ指さされることなく発揮できるだろう。
そう思えば自然と笑がこぼれる。

「ちょうどいい、幸隆にも紹介しておこう。四郎」
鮮やかな水色の直衣を身に纏った少年が入ってきた。
その顔を見て源五郎は、
「あっ」
と声を上げた。
「なんだ、知り合いか?」
「幸隆も初めてだろう?諏訪から来たばかりだ、これの母親が亡くなったのでな」
「諏訪四郎と申します。お見知り置きを」
その少年は幸隆だけを見て挨拶した。
先ほどの美少女と思われたのは、武田晴信の四男、後の武田勝頼だったのだ。
こうして真田昌幸と武田勝頼の二人は運命の出会いを果たした。
「源五郎、四郎の面倒を見てくれ。二人とも下がって良いぞ」
「は、はい。いえ、御意」しどろもどろで答える源五郎に対し
「失礼いたします」
四郎は優雅なたち振る舞いで下がった。
源五は慌ててその後を追いかけた。
晴信と幸隆はもう別の話を始めている。

廊下の端で追いつくと四郎は振り向き、
「女だと思ったのだろう、さっきは」四郎が軽く怒気を含んだ声で問う。
「え、いえ、その」
「だから嫌なんだ。この顔」
半ば独り言のように四郎は呟いた。その声も可愛らしい。

鼻筋の通った美しい横顔を源五は仰ぎ見た。そんなきれいな顔で嫌になってたら俺なんて…と思っていたが
「矢を持て。弓をひくぞ」四郎にいわれ
荷も解かぬまま源五は四郎の支度を手伝う。
その弓を持つと想像以上の重い弦だった。
思わず
「すげぇ、もうこんな強い弓を引けるんだ。うちの兄者たちよりすごいや」
と言ってしまう。
その時、初めて四郎が笑った。
まるで艶やかな花が咲いたようだった。
「俺が継ぐのは諏訪の家だ。神職になったら必要ないかもしれないがな。こんな顔だから弱いだろう、と馬鹿にされたくない」
その花がたちまち曇った。

「諏訪の…」
源五郎はつぶやく。彼のような子供でさえ諏訪大社には畏敬の念を持っている。
諏訪大社は古代より由緒ある信濃の神社だ。
戦神としても知られている。諏訪氏はその諏訪大社の大祝だった。つまりは現人神なのだ。 源五郎は何度か父親から聞かされていた。
一時は武田と組んで真田や海野と戦った諏訪が、今度は武田に裏切られ諏訪頼重は切腹させられその娘は無理矢理晴信の側室にされたと。
世は無情だの、と幸隆が少しだけ眉根を寄せたのを良く覚えている。
源五郎も神にも、神に仕える者にも触れるものではないと思っていた。
その現人神の娘の子なのか、四郎様は…いや、いつか現人神となる御身なのか、と源五郎は改めて考えてしまった。

「俺は武田方にも、諏訪方にも疎まれている。母上さえ俺を嫌っていた。大人たちは…俺が穢れていると」
「そんな!殿は綺麗だよ!そんなこというやつ、この源五がぶちのめしてやる」
自分の沈黙を悪くとられたのではないかとあわてて源五郎は否定する。
「おまえが!?勇ましいな、ははは」
四郎が笑う。源五はその笑顔の美しさに心が浮き立った。
「初めて話した、こんなこと。誰にも内緒だぞ」
四郎を取り巻く空気がやわらぐ。 「はい、誰にも!」
「うん、二人だけの秘密だ」
四郎は小指を差し出す。
源五は二人だけの秘密という言葉と差し出された柔らかな白い指に、かすかなときめきとともに自分の指を絡めた。
「誓います。この先、殿を命懸けて守ることを」